茂沢 エリア
!特別な場所
!ディズニイの『ピーター・パン』は、日本でもだいぶ好評だったらしいが、アメリカでも、たいへんな人気であった。普通アメリカでは、相当評判のよい映画でも、映画館の前に、行列を作るということは、滅多にない。しかしディズニイの長篇物は例外であって、その行列がけっして珍しくない。
『ピーター・パン』の場合も、そうであった。最初の上映以来数カ月経って、郊外の二流館、三流館へ廻ってきた頃になっても、やはり子供たちは、長い行列を作って、開館の時刻を待っていたものである。小学生のうちの末娘などは、六回か七回くらいも見たようであった。同じ学校の友だち連中は、誰も彼も皆それくらいは見ているというので、まあしかたがないということにしておいた。
先日の日曜に、一年ぶりで、また札幌でこの映画を見たが、あいかわらずおもしろかった。それに、日本へ帰ってから、見直したせいかもしれないが、この映画には、日本の昔の武士道的な性格が、その根柢に強くくい入っているような気がして、とくに印象が深かった。もっとも、それは西洋風な騎士道の精神であって、日本の武士道の一つの面が、それと似たものであるということかもしれない。
『ピーター・パン』の場合も、そうであった。最初の上映以来数カ月経って、郊外の二流館、三流館へ廻ってきた頃になっても、やはり子供たちは、長い行列を作って、開館の時刻を待っていたものである。小学生のうちの末娘などは、六回か七回くらいも見たようであった。同じ学校の友だち連中は、誰も彼も皆それくらいは見ているというので、まあしかたがないということにしておいた。
先日の日曜に、一年ぶりで、また札幌でこの映画を見たが、あいかわらずおもしろかった。それに、日本へ帰ってから、見直したせいかもしれないが、この映画には、日本の昔の武士道的な性格が、その根柢に強くくい入っているような気がして、とくに印象が深かった。もっとも、それは西洋風な騎士道の精神であって、日本の武士道の一つの面が、それと似たものであるということかもしれない。
黒い月の世界
この映画の筋は、原作とはだいぶちがうが、要するに、永遠の子供の表徴であるピーター・パンと、悪の権化ともいうべき海賊の首領フック船長との戦いに、ピーター・パンが遂に勝つというところに、話の山がある。
フック船長は、人を殺すことなどは、なんとも思わない兇悪な男で、力も非常に強い。しかし精神は弱い。ピーターは、自由に空を飛び廻れる敏捷な子供で、力は強くないが、高い精神をもっている。海賊船の上でのフック船長との最後の決戦で、業を煮やしたフック船長が、「空を飛んで逃げてばかりいるのは卑怯だぞ」と、どなる。ピーターは「なに、卑怯だって。それならもう飛ばない」と言いきってしまう。それからは、帆柱の横桁の上での血戦になるわけであるが、フックの長刀に切りまくられたピーターは、桁のどんじりに追いつめられ、おまけに唯一の武器たる小刀まで打ち落されてしまう。絶体絶命の境である。ロンドンから一緒に飛んできた子供たちの一人、ウェンディが、帆柱の上から「ピーター、飛びなさい。飛びなさい」と絶叫する。しかしピーターは「|私は約束した《アイ・ゲヴ・マイ・ウワーズ》」と言って、断乎として踏みとどまる。
これがアメリカにおける初等教育の基本である。小学校における六年間の教育には、四つの基本線があるようである。第一は、「嘘をつかない」という教育を、躾として身につけさせること。第二は、それと関連しているが、約束《プロミス》は絶対に守ること。このプロミスという言葉には、誓《ちかい》の意味が、たぶんに含まれている。「アイ・ゲヴ・マイ・ウワーズ」した以上、それは取り戻せないことなのである。
第三は、開拓精神《フロンティア・スピリット》を失わないこと。百年前のアメリカは、今日とはまるで国の姿がちがっていた。東部に入植した欧洲人たちは、大西洋に面した一つの国をつくっていただけである。それが一八四九年のゴールド・ラッシュの浪に乗って、中西部の沙漠地帯を越えて、太平洋岸に進出してきて、今日の両大洋に面した大国をつくりあげた。道もなく水もない炎熱の沙漠で、この開拓者たちは、非常に苦しい生活に耐え、自然の猛威と戦った。この精神の一つのあらわれとして、「卑怯」をなによりも蔑《いや》しむ気風が生れた。今日のいわゆる西部劇には、野蛮な面も、殺伐な面も大いにあるが、開拓精神を失うまいとする意図が働いている点を見逃してはならない。第四は、弱い者を徹底的に労《いた》わるという教育である。『ピーター・パン』の中には、この点も、巧く織りこんである。
フック船長は、人を殺すことなどは、なんとも思わない兇悪な男で、力も非常に強い。しかし精神は弱い。ピーターは、自由に空を飛び廻れる敏捷な子供で、力は強くないが、高い精神をもっている。海賊船の上でのフック船長との最後の決戦で、業を煮やしたフック船長が、「空を飛んで逃げてばかりいるのは卑怯だぞ」と、どなる。ピーターは「なに、卑怯だって。それならもう飛ばない」と言いきってしまう。それからは、帆柱の横桁の上での血戦になるわけであるが、フックの長刀に切りまくられたピーターは、桁のどんじりに追いつめられ、おまけに唯一の武器たる小刀まで打ち落されてしまう。絶体絶命の境である。ロンドンから一緒に飛んできた子供たちの一人、ウェンディが、帆柱の上から「ピーター、飛びなさい。飛びなさい」と絶叫する。しかしピーターは「|私は約束した《アイ・ゲヴ・マイ・ウワーズ》」と言って、断乎として踏みとどまる。
これがアメリカにおける初等教育の基本である。小学校における六年間の教育には、四つの基本線があるようである。第一は、「嘘をつかない」という教育を、躾として身につけさせること。第二は、それと関連しているが、約束《プロミス》は絶対に守ること。このプロミスという言葉には、誓《ちかい》の意味が、たぶんに含まれている。「アイ・ゲヴ・マイ・ウワーズ」した以上、それは取り戻せないことなのである。
第三は、開拓精神《フロンティア・スピリット》を失わないこと。百年前のアメリカは、今日とはまるで国の姿がちがっていた。東部に入植した欧洲人たちは、大西洋に面した一つの国をつくっていただけである。それが一八四九年のゴールド・ラッシュの浪に乗って、中西部の沙漠地帯を越えて、太平洋岸に進出してきて、今日の両大洋に面した大国をつくりあげた。道もなく水もない炎熱の沙漠で、この開拓者たちは、非常に苦しい生活に耐え、自然の猛威と戦った。この精神の一つのあらわれとして、「卑怯」をなによりも蔑《いや》しむ気風が生れた。今日のいわゆる西部劇には、野蛮な面も、殺伐な面も大いにあるが、開拓精神を失うまいとする意図が働いている点を見逃してはならない。第四は、弱い者を徹底的に労《いた》わるという教育である。『ピーター・パン』の中には、この点も、巧く織りこんである。